2012→2013

振り返ろう。

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……このあたりで会社を辞める。大変つまらない折込チラシの仕事を、延々7年間も!俺はアホだとも思うけど、無駄な日なんて一日もない。養ったのは配送業者が待ちきれずに会社にやってきても、修正を淡々とこなす胆力。

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上海生活。

けんた
こっちのケンタッキーはご飯が出る!吉野家では餃子とかラーメンが出る!

中国に来てコンビニ以外で最初に食べた焼き小龍包の美味しさに、衝撃を受けた。 チンゲイウォ イーフェン まーぼーどーふ!と唱えると出てくる。

全く言葉ができないので、全く生活に困る。
食事は「やおじぇいが」と唱えて指を指せば、だいたい食べることがわかった。
携帯電話のチャージも、コンビニに行って「ちょんじー!」と唱えれば充値できることがわかった。(近くにいたおばさんにだいぶ長いこと説明してもらった。店員さんは基本ぶっきらぼう)

ネットの接続は困難を極めた。 中国電信に住所やパスポート等の登録を済ませ、更に別のところに行って、工事の日時を取り決め、その日にじっと待っていたけれど、やってきた人は手ぶらで、一生懸命話しかけてくれるんだけれど、何を言っているのか理解できず、紙に書いてもらうも、やはりわからず、会社の人のサポートでようやくつながったと思ったら、一週間後、光信号がペカペカしだして繋がらなくなり、できもしない英語で、繋がらない!次の土曜日の朝に修理に来てくれまいか、と伝え、3時くらいになっても来なくて、中国電信に電話して、いまあんたのアパートに向かっているよ!と5回くらい聞き返して理解し、作業員から電話がかかってくるが、やはり何を言っているのかわからず……、まぁ、こんな塩梅でずっと困難が続くのだけれど、ああ、俺は中国語勉強しなければいけないなと思い、中国語学校に通い始めました。 全く丸腰できたので、最低レベルからのスタートです。 少しずつ、少しずつ、コンビニやマックでの食事から離れ、ローカル食堂で食べれるようになって来ました。

家探し。

ずーっとホテルに泊まっているわけにも行かないので、会社の人と家探し。 Exif_JPEG_PICTURE

旧フランス租界地にある、老房子(ラオハンズ)と呼ばれる所に住むことになりました。
建物は格好いいが、
そして、道路沿いにあるので深夜でも引っ切り無しにクラクションが鳴らされる。(中国において、道路の優先順位は自動車>自転車>歩行者)
ま〜、そんなものだと思えば快適に暮らせる。日本のクオリティを求めるのが間違っているな。
でも、冷蔵庫洗濯機などの家具は、備え付けが基本で、新たに買う必要がないところがいい。

大家さんの娘が日本語喋れるのが救いです。
なるべく荷物を増やさず、身軽に動けるようにしないと。

ラオハンズ

中国では日本語が通じない!

学生時代、海外なんて行くもんか、小さくうじうじと生きて死んでいくんだ、つって生きてきたわけで御座る。英語も何も出来ない。日本語もうまくできない。思念が実際に出力していく言葉と乖離し、酢醤油が、林の中を、疾走するのだ。

でも、なんか、ホテルに泊まったり、焼き小籠包の美味しさに驚いている日々を送っている。

ホテルはぱっと見小奇麗なのだが、米粒のゴキブリが多数這いずり回り、たまに親指程度の大きさの奴も出てくる。朝起きて布団をめくったら、内側に張り付いていたこともあった。窓を開けて換気しようとするが、建物が四方を囲み日の当たらない場所で、ジットリとコケが生えている。これが中国!これぞ中国!

食べ物もお店に行って注文する勇気がなく、コンビニの菓子パンばかり。水道水も危険だとガイドブックに書かれていたので、ジュースばっかり。

昼間はなんとなくぶらぶら写真撮って、夜は金魚王国の崩壊を見ていた。

この国でやっていけるのかな〜、と思いつつ。

東京→上海

そういえば俺は海外に行ったことがないのであった。
柏で生まれ、柏で育ち、柏で死んでいくものだとばかり思っていたのだ。

退職日も出発2週間前。もう大変。
持ち物の処分、アパートの解約、役所関係の手続き、カード類の変更手続き、パスポート、ビザ、航空券の取得に追われまくり。

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辞めた

半年間働いた会社は営業もデザインも凄腕で経営の知識もある超凄腕の人が待ち構えていて、更にはアーティストの販促物を作成するため超ハイクオリティを求められる職場でありました。

「え、俺黄ザラの折込チラシばっかり作っていたんですけど……」

とか思ったのだけれど、その人含めてデザイナー二人。出来ないとか言ってられない。やるしかないのだった。

終電帰りが当たり前で、たまに徹夜。土日も作業してました。デザイナーとしては当たり前なのかもしれないですけれど、きつかった〜。
職場も刺激的で、罵詈雑言が飛び交い、泣き続けていた新卒二人が試用期間で辞めて、俺も半年で辞めるに至りました。
ただ、会社に対してあんまり恨みとかはなくて、営業もデザインセンスもずば抜けて高いディレクターは尊敬できたし、一緒に働いてる人たちとは殺伐とした世界で妙な連帯感があったし、ショービズ界の裏側も恐ろしくも興味深かったし、妥協を許さずリテイク喰らいまくり制作したものも、自分の力以上のものが作れたと思う。

家で徹夜で作っている最中に見たAKBのドキュメンタリーで「あっちゃんがあんな状況でもステージに立ち向かっているんだ!俺の作った物をファンのみんなが楽しみにしているんだ!頑張らなければ!」と、自分を無理矢理に鼓舞した。

しかし「右手もなんだか震えてきたし、よし、やめよう!」と思いました。

ただ、自分は意志薄弱で「辛いからやめます」と言えない人間です。勇気ある撤退が出来ず、過労死とか自殺するタイプの人間だと思います。

そういうわけで辞めるきっかけを探して、就職活動していたのですが、ポートフォリオ見せるとそこそこ感触がいいわけなんですよ。だって、デザインできる人の指導で、何度も何度も洗練させたものなのですから。

で、内定もらいました。上海の会社でデザイナー。